思考再開

自分さえ良ければ社会から、助け合い・共存共栄社会へ

成果は個人のものではなく、全員のものである

成果は全員のものです

仕事において「成果を上げる」ことは重要です。
しかし、「誰が成果を上げたのか?」については、あまり拘るべきではないと思っています。

本当にすごい成果は別として、ほとんどの成果は「普通」の成果です。自分が成果を上げていなければ、代わりに他の誰かが成果を上げています。忘れてはならないのは、誰かが成果を上げることができたのは、「他の人たちが『何もしなかった』おかげである」という事実です。彼らは「何もしなかった」ということを「した」のです。

誰もが我先にと、自分の成果を求め出すと、良い結果は生まれないものです。誰かが成果を上げることができたのは、他の人たちが一歩下がって、花をもたせてくれたからなのです。

成果は、個人のものではありません。
成果は、「何かをした人」も「何もしなかった人」も含めて、全員のものであると考えるべきなのです。

ずぶ濡れのぞうきんは誰にでも絞れます

乾いたぞうきんを絞って、水を出すことは難しいです。
ずぶ濡れのぞうきんを絞って、水を出すことは簡単です。
業務改善がすっかり進んだ環境において、新しい成果を上げることは、困難です。
業務改善がまったく進んでいない環境において、新しい成果を上げることは、容易です。

たいていの成果は、その人に能力があったから上げることができたのではなく、業務改善が進んでいない環境だったから上げることができたのです。そのことがわかっていれば、自分が何かしら成果を上げたとしても、天狗になるようなことはありません。組織の役に立てたことに、感謝できるようになります。

人の評価なんて当てになりません

たとえば、今では当たり前となっている自動車の「エアバッグ」の開発者は、日本人です。しかし、最初にこれを取り入れたのは、日本のメーカーではなく、外国のメーカーです。外国のメーカーがエアバッグを取り入れたから、後になってから、日本のメーカーもエアバッグを取り入れたのです。

このことが私たちに教えてくれることは、「成果として認められるかどうかは、(成果そのものも大事ではあるが)評価する側知識や想像力に左右されるということです。したがって「自分は成果を上げた! アイツは成果を上げていない!」などと言うことは、本当に子ども染みたことなのです。

本当に正しい選択だったかどうかは誰にもわかりません

目の前にある成果が、最も正しい選択によるものであるかどうかは、誰にもわかりません。実は他にも選択肢があり、そちらを選んでいた方が、より大きな成果を上げることができていたかもしれないのです。

成果を上げるための選択肢が2つあった場合、2つの未来を、ある程度「予測」することはできたとしても、2つの未来を「体験」することはできません。未来への選択肢が2つあったとしても、未来自体は1つなのです。

自分の提案が採用されたからといって、それがベストであったとは限りません。同僚や後輩の提案が採用されていた方が、より大きな成果を上げていたかもしれないのです。

目の前にある成果は、実は成果ではないかもしれません

今現在は「その選択」によって、巨額の利益を得ることができているかもしれません。しかし、10年後には「その選択」のために、巨額の不利益を被ることになるかもしれません。100年後には「その選択」のために、地球規模での不利益を被っているかもしれません。つまり、目の前にある成果が、本当の意味での成果であるかどうかは、いつまでたっても、誰にもわからないのです。

成果とは「過去から現在に至るまでの歴史の積み重ね」のことです

たとえば、システムエンジニアという職業に就いている人たちがいます。いかに彼らの能力が優れていようとも、彼らが活躍できるのは、パソコンを作ってくれているメーカーのおかげです。パソコンを作っているメーカーが活躍できるのは、パソコンを開発してくれた人たちがいるからです。パソコンを開発した人たちはどうやって開発したのかというと、やはり先人たちの技術を利用したのでしょう。

私たちは「ゼロ」から何かを創り出しているわけではありません。私たちは先人たちの技術を、少しずつ少しずつカスタマイズを繰り返してきて、現在に至っているのです。

成果とは「過去から現在に至るまでの歴史の積み重ね」のことなのです。

成果を全員のものと考えられるかどうかは、ベーシックインカムの導入が鍵を握っています

「個人の成果」に拘って、競争を続けても、誰も幸せにはなれません。「全員の成果」に拘って、お互いに協力し合った方が、私たちはより多くの富を手にすることができます。しかし、現在のような奪い合いの世の中で、「全員の成果を求めましょう!」などと言っていては、足をすくわれかねません。

「縁の下の力持ち」という言葉も、ほとんど死語になってしまいました。縁の下の力持ちは、とにかく目立ちません。給料が上がらないどころか、リストラ対象にさえなりかねません。誰もが「個人の成果」に拘るようになったとしても、無理もないのです。

まずは、ベーシックインカムを導入して、「働かなくても生きていける社会」を実現すべきだと思います。「働かなくても生きていける社会」が実現されることで、私たちは安心して「全員の成果」を求めることができるようになるのです。

(※逆かもしれませんね。「成果は個人のものではなく、全員のものである」という考え方を知ることで、ベーシックインカムの導入に賛成することが、できるようになるのかもしれません)

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